NHKの大河ドラマ「どうする家康」は、いよいよ14日の放送で最終回。豊臣勢との「大坂の陣」も、決着の時を迎える。この戦いの中で特に有名なのが、大坂城から張り出した出城「真田丸」をめぐる攻防だ。大坂の陣において、徳川方を迎え撃つために築いた出城だが、実は近年になっても多くの見解が示されており、通説が定まっていない。真田丸自体について、これまでの研究を整理した。
朝日新書『』(第十四章 著:草刈貴裕)から一部抜粋、再編集して紹介する(この記事は「AERA dot.」に2023年9月23日に掲載した記事の再配信です)。
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さて大坂冬の陣は、徳川家と豊臣家が対立したことによって発生した戦争であるが、その対立は、慶長十九年(一六一四)八月の方広寺鐘銘事件をきっかけに始まり、対徳川外交を担っていた片桐且元を追放したことで決定的になり、十月一日に徳川家康は諸大名に出陣を命じた。
そのような徳川家の動きに対して豊臣家は、諸大名や牢人たちに勧誘を行った。諸大名からの味方はなかったが、多くの牢人たちが大坂城に入った。真田信繁は、関ヶ原合戦で父真田昌幸と共に西軍に味方したため、高野山に追放となり、その山麓の九度山(和歌山県九度山町)に居住していた。信繁には、豊臣秀頼から支度金として黄金二〇〇枚・銀三〇貫が与えられ、入城後には五〇〇〇人の兵を預けることと、五〇万石の恩賞が約束され、信繁はこれに応じた。
誘いに応じた信繁は、十月九日の夜に出立した。九度山へと付き従っていた家臣に加えて、正妻ら家族も同行したとされている。
翌十日に大和五條二見城主の松倉重政に船で追われたが、信繁は入城に成功した。
この信繁入城は、高野山から徳川家にもすぐに知らされた。高野山からの使者は、十月十三日に三河国池鯉鮒(愛知県知立市)で家康側近の僧である金地院崇伝と会い、崇伝は同じく家康側近である本多正純に自身の書状と高野山からの書状を送っている。翌日には、先陣を務めていた藤堂高虎(伊勢国津藩)にも入城を知らせている。
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